| 総入れ歯の歴史 | |
| 太古の不思議とロマンが今も眠る所 ― 揚子江やナイル河流域といった古代文明の発祥の地では、紀元前約3,500年から4,000年には歯の病をやわらげるため、薬や魔術、マジナイが用いられたといわれています。 エジプトで発見された紀元前1,550年頃と推定されるエーベルスのパピルス(注)には、歯痛をやわらげる鎮痛療法、動揺歯の固定法、歯痛など数種類の口腔疾患とその治療法が記されていましたが、まだ、歯を人工的に修復する方法は書かれてはいませんでした。(とはいえ、歯の専門医は紀元前3,000年頃にはすでにいたらしいことはわかっています。) エジプトでは、紀元前500年頃にはすでに歯科専門の医師が存在し、少なくとも紀元前250年頃には素朴な補綴装置が作られ、歯科補綴治療が行われていました。このように歯科技術は、まずエジプトで起こり、その知識と技術は地中海を通じてフェニキア、そしてギリシャへ伝わったと考えられています。 注:1873年、エジプト学者であるエーベース教授(George Ebers) によりテーベで発見されたパピルス |
"目には目を、歯には歯を"
ハンムラビ法典は同害刑法
バビロン第一王朝の第6代 ハンムラビ王(BC1792〜1750)は、世界で最も古い法律を制定し、また史上初めて医師という職業に関する法律を定めた人。 "目には目を、歯には歯を" という言葉であまりにも有名なハンムラビ法典は報復刑法、あるいは同害刑法といわれ、歯に関する条文(第200、201条)には「誰でも同輩の歯を抜き落とした者は自分の歯を抜かねばならぬ」「自由民の歯を打ち砕いた者は銀25シェクル(1/2ミナ)を支払わねばならぬ」とあります。
| ところで、日本の場合はどうなのでしょうか。驚くべきことに、総入れ歯の歴史でいえば、日本はヨーロッパよりも200年は早いのです。 現存している最古の総入れ歯は、和歌山の願成寺の草創者である中岡テイ、通称”仏姫”と呼ばれる女性のもので、彼女が死んだのが、1538年であることから、少なくともこれまでには技術的な発展が行われていたらしいといえます。 注目すべきことは、この総義歯は現在とほとんど同じ形をしていることです。しっかりした床(顎に触れる部分)ときれいに彫られた歯はまさに芸術品!上下の歯をバネでくっつけただけのヨーロッパのものと比較してもその噛み心地、固定度の格段の差はあったものと思われます。 材料はツゲの木を使っていますが、ツゲは、曲げの強さ(曲げ破壊係数)が強く、弾力があり、彫刻しやすいという利点から木床義歯に最も適した素材として最もよく利用されていました。技術的にも素晴らしく、内刳の技法と共通するといわれており、仏像制作に関係した仏師がこれらの義歯の技法を初めて使用したのではないかと考えられています。 その他、柳生飛騨守宗久(1612〜1675)、静岡の山本文之右衛門(1710〜1786)の木彫総義歯も残っており、現在の総入れ歯に比較しても遜色のない形と機能がうかがわれます。 このように木床義歯は明治の初期にかけてまで全盛期を迎え、その様は川柳や小説にもたびたび登場していました。しかしながら1860年にアメリカの歯科医師イーストレイク(1825〜1887)が来日、初めて西洋式補綴術を伝えて以後は形成が簡単な蒸和ゴムの時代となり、木は歴史から消えていくことになります。 |